髙取焼の歴史 - History of Takatoriyaki

筑前茶陶、髙取焼の歩み

沓形茶盌 内ヶ磯窯<「王」字窯印>
沓形茶盌 内ヶ磯窯<「王」字窯印>

髙取焼は筑前福岡藩の藩窯として、黒田長政の筑前移封後まもない慶長年間に開かれました。慶長という髙取開窯の時期は、茶の湯の隆盛期にあたっていて、利休による侘茶の大成を承け、茶器への需要も大きな転換期を迎えます。豊臣政権による朝鮮派兵に参戦した西国大名は、こぞって陶磁器生産の先進国・朝鮮から直接生産の技術を獲得しようと、多くの陶磁技術者を連れ帰り、各地に陶磁窯を開きました。
髙取焼もそのひとつで、朝鮮人陶工・八山を中心とした陶工集団であったとされています。始めは素朴な製品が中心でしたが、桃山風の力強く豪快な作風の茶陶を作るようになり、その後、寛永年間には小堀遠州の指導を受け、遠州好みの洗練された茶陶を生産するようになったと伝えます。髙取焼はそののちも江戸時代を通じて瀟洒な感覚の茶陶として広く親しまれ、現在に至るまでその生産活動を持続しております。

髙取焼関連年表

慶長7年(1602)
この頃、永満寺宅間窯が開窯されたとされている。
八山は「髙取八蔵」の名を賜る。
慶長19年(1614)
内ヶ磯窯開窯。
寛永元年(1624)
山田窯開窯。
寛永6年(1629)
遠州茶会記(4月23日・24日)に「茶入筑前焼」「筑前焼水指」の名で髙取焼が初見。
寛永7年(1630)
白旗山窯開窯。この頃、八山父子は伏見の小堀遠州のもとへ茶器製作の指導を受けに行く。
正和4年(1647)
小堀遠州没(2月6日、69歳)。
承応3年(1654)
八蔵重貞(八山)白旗山にて没(8月)。嫡子・八郎右衛門が多病のため、次男の新九郎が二代目となり、八蔵貞明を名乗る。
寛文5年(1665)
白旗山から小石原鼓へ御陶所を移す。
寛文9年(1669)
この頃、八山の孫・八之丞貞正、小石原中野に移る。
天和2年(1682)
小石原中野にて、光之、肥前伊万里より陶工を招来し陶器を作らせる。
小石原焼の起こり。
貞享2年(1685)
八郎重房、八郎右衛門の跡式を継ぎ、六人扶持で御用陶工となる。
元禄元年(1688)
この前後に、福岡城の南、田嶋村大鋸谷に窯を開く。
17世紀 | 安土桃山時代・江戸時代
元禄17年(1704)
八蔵貞久、鼓村より博多奥乃堂へ引っ越す(2月)。大鋸谷窯、不意に取り崩しとなる。
亨保元年(1716)
東皿山窯開窯。
寛保元年(1741)
西皿山窯開窯。
18世紀 | 江戸時代
明治4年(1871)
廃藩置県により多くの御用窯が廃窯。
19世紀 | 明治時代
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