窯の変遷 - Vicissitude of Takatoriyaki
髙取焼の窯歴(五期)
古髙取
永満寺宅間窯
内ヶ磯窯
山田窯
遠州髙取
白旗山窯
小石原髙取
小石原鼓窯
小石原中野窯
未分類
大鋸谷窯
東山髙取
東皿山窯
西山髙取
西皿山窯
廃窯
永満寺宅間窯/えいまんじたくまがま - 慶長7年(1602)
髙取焼の第1番目の窯で、藁灰釉や飴釉の掛かった、素朴で力強く、伸び伸びとした作品が伝世しています。窯址の調査報告書によると大小の碗類や皿、鉢、壺、甕、片口、瓶、擂鉢などの器も多く出土しています。釉薬の特徴は、窯変により釉薬が海鼠(なまこ)の体表を見るように青白く呈色する例を数多く見受け、「青海鼠」の名称で呼ばれています。
窯址は福岡県直方市大字永満寺宅間(福岡藩の出城の一つだった鷹取城の南山麓あたり)にありましたが、現在は石碑のみがそこに窯があったことを示しています。
内ヶ磯窯/うちがそがま - 慶長19年(1614)

髙取焼の第2番目の窯で、歪みや箆削りなど作為性を強調する桃山様式の焼物が多く伝世しています。窯の構造・規模は、焼成室14室、焚口1室をそなえた段階式連房登窯で、全長四6.5メートルの大規模な窯です。髙取焼研究に重要な影響を与えた窯で、現存する髙取焼の中でも、最も多くの作品が伝わっています。出土陶片から窺えるこの窯の製品は多岐に及び、茶入や茶碗、水指などの茶陶関係の製品以外に、大小の皿、鉢、擂鉢、壺、片口、徳利などの日常雑器、陶人形、漁具、筆立、水滴など生活全般にわたっています。窯址は、鷹取山の北を西流する福地川の渓谷を数キロメートル入った尾根の上に位置したところにありましたが、その場所にダムを建設することになったため、大規模な発掘調査を行った後、状態を損なわないよう埋め戻され、今はダムの下に沈んでいます。
山田窯/やまだがま - 寛永元年(1624)
元和9年、黒田長政が没すると、髙取八蔵(八山)らが朝鮮への帰国を願い出て藩主忠之の勘気を被り、扶持を召し上げられ嘉麻郡上山田村へ蟄居させられました。少数の門弟らとともに、日常身辺の焼物を焼いたと伝えるのがこの山田窯で、作風は李朝の特徴を残した、大らかで豪壮なものであったと伝えられます。窯址は、山田市大字上山田字木城にあったとされていますが、現在は戦時中の石炭採掘により、一帯はボタの捨て場所となり、完全に埋没しています。
白旗山窯/しらはたやまがま - 寛永7年(1630)

山田村へ蟄居を命じられてから6年、帰参を許された髙取八蔵(八山)らは、穂波郡合屋川内中村(現在の飯塚市幸袋大字中字野間)の白旗山の麓で新たに築いたのが白旗山窯です。この頃、八山父子は京都伏見の小堀遠州のもとへ茶器制作の指導を受けに行き、生産の主体は茶器におかれます。遠州好みの「綺麗寂び」を体した茶陶を生産したので、この時代の作品を遠州髙取と呼び、染川・秋の夜・横嶽など多くの名品が生まれました。華やかな釉調と軽やかな姿形をした瀟洒な茶陶は、当時の国焼にはない独自の特徴をそなえており、特に釉薬の美しさは、江戸時代の京都の名工野々村仁清も写したと伝えられます。窯址は、白旗山の北麓にある撃鼓神社(別名高宮権現)の境内の馬場脇あたりに位置していますが、現在は周りに民家もあるため発掘調査を行った後埋め戻されています。
小石原鼓窯/こしわらつづみがま - 寛文5年(1665)
初代八蔵重貞亡きあと長男八郎貞清病弱のため次男八蔵貞明が二代を継ぎ、上座郡鼓村釜床(現在の朝倉郡東峰村大字小石原鼓釜床)に新たに築いたのが小石原鼓窯です。この時代に焼かれた作品は、一般に「小石原髙取」と呼ばれています。明治4年(1871)、廃藩置県にともない藩窯としての役目を終え廃窯しましたが、昭和32年(1957)に髙取静山氏により再興を果たしています。窯址は、現在も髙取家(小石原鼓釜床)の家屋の裏山に遺っています。
小石原中野窯/こいしわらなかのがま - 寛文9年(1669)

小石原鼓窯が開窯した後も白旗山窯はしばらく存続しており、八山の嫡子で病弱だった八郎右衛門貞清の次男八之丞が住居していて、そこから鼓村へ掛け勤め※1を行っていましたが、寛文9年に小石原村中野(現在の東峰村大字小石原皿山)へ移り住み、廃藩の明治4年まで小石原鼓窯と東皿山窯へ掛け勤めを行いました。小石原中野窯の原窯とされる中野上の原窯の窯址は現在も小石原皿山に遺っており、草で覆われてはいますが、その古跡を窺うことができます。
大鋸谷窯/おがやがま - 元禄元年(1688)
元禄元年前後に福岡城の南(早良郡田島村抱大鋸谷)に築窯され、元禄17年の廃窯までおよそ20年間活動したのがこの大鋸谷窯です。この窯では藩主綱政みずから筆をとって茶碗に絵付けを行い、あるいは素焼きの茶器を上方に送って宮崎友禅に好みの下絵を描かせたといいます。確かな所在や出土遺物についてはほとんど不明で、伝存する陶片の多くは細かい破片の状態でしか残っていないようです。
東皿山窯/ひがしさらやまがま - 亨保元年(1716)
享保というと幕府による「享保の改革」が有名ですが、諸大名の財政事情も厳しかったようです。このとき早良郡麁原村上の山(現在の福岡市早良区西新)に増窯されたのが東皿山窯で、一般に「東皿山」と呼ばれています。主に茶道器を製造する窯場でした。この時から廃藩置県までのおよそ150年間にわたって活動し、髙取家の歴代は小石原鼓窯に半年、東皿山窯に半年と掛け勤め※1していました。現在、窯址付近には人家が建ち並び、その古跡を窺うことはできません。
西皿山窯/にしさらやまがま - 寛保元年(1741)
次に東皿山の西に増窯されたのが西皿山窯で、一般に「西皿山」と呼ばれています。この窯は一般の庶人を対象とした徳利、食器、甕、すり鉢等を製造する窯場だったとされています。
廃窯 - 明治4年(1871)
小石原中野窯は現在に至るまで生産活動を持続しています。
- 髙取家では窯(御焼物所)を掛け持ちして勤めることをこのように呼んでいたようです。
参考文献
- 福岡県史
- 小石原村史
- 筑前髙取焼の研究 尾崎直人
- 特別企画「大名茶陶-髙取焼」展図録
- 髙取歴代記録
- 炎は海を越えて-高取焼再興奮闘記 高取静山